COMPANY PROFILE – 会社概要

Atelier

会社名 : 有限会社クエストインターナショナル
本社/アトリエ : 〒399-0703 長野県塩尻市広丘高出1756-1
TEL : 0263-50-7608
FAX : 0263-54-4085
Atelier
設立年月日 : 1997年6月27日
代表取締役 : 大和 俊夫
事業内容 :
  • 弦楽器及びパーツの企画開発、卸販売
  • 楽器およびコンポーネントの輸出入
  • 輸出入に関するコンサルティング
取引銀行 : 三菱東京UFJ銀行 内田橋支店
八十二銀行、松本&塩尻、
主要取引先 : 株式会社フックアップ
池部楽器店
Music Land KEY
島村楽器他、全国小売店

OWNER’S MESSAGE

I’m Dreamer… 今も夢を追い続けて・・・『弾きやすさと音作りに、そしてオリジナリティーを求めて』弦楽器を主体とした開発に情熱を燃やしています。クエストインターナショナル社は、その名のとおりに『探究心』を心情に自社ブランドの開発にエネルギーを注ぎ、幾多の楽器たちをミュージックシーンへと送り出してきました。MD MM-Produce Electric Guitar & Bass, Landscape Upright Bass, Sound Port Acoustic Guitar, Lanai Ukelele, Baxus-Pro Gig Bag と多くのアイテムが開発され、プロミュージシャン達の様々な音楽シーンで活躍しています。弊社は、その中枢の部品であるGotoh-Partsの開発や販売にも携わり、世界の市場に於いてもその価値を認めていただいていおります。多くのミューミュージシャンとのコラボレーションによって、その楽器達は無限大の可能性を秘めて進化しています。その魅力に触れていただけたら、貴方の楽器への価値観が変わる事と思います。さあ・・弊社の商品群へお客様をお誘いしたいと思います。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。 敬具

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雑誌のインタビュー記事から・・・

大和氏インタビュー(マツモク1974~1987 / 荒井貿易1987~1995

松本木工株式会社(マツモク)に入社、組立工程を経た後、企画やアーティスト・リレーションに関わる。

数々の名機を生み出してきたキーマンである大和氏にその経歴や関わってきたモデル、人々、マツモクの思い出など取材させていただきました。

クエスト インターナショナル 代表取締役 大和俊夫氏

QUEST INTERNATIONAL LTD  WWW.quest-md.com

1972~1987 マツモク工業株式会社入社 企画室係長、デザイン、製作、リペアー

1987~1996 荒井貿易株式会社入社 企画開発室室長、オリジナルモデル開発、ARIAの立て直し

高級ラインAPシリーズの立ち上げ、マーケティング、アーティスト・リレーション

1997年6月 独立 クエスト インターナショナル設立

Landscape /MD-MM produce 等のオリジナルブランドを育てる、盟友、松原正樹氏と開発したMD-G1はギタリストのあこがれとして君臨する。海外のミュージシャンとの活動も多くワールドツアークラスが名前を並べる。現在は販売代理店のフックアップとタッグを組んで活動をしている。OEMの仕事で2004~Sugi guitars初期の販売支援や小売店のオリジナルモデルの供給もしている

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大和を育てたマツモクとの歴史

1971年、マツモク工業株式会社に社名変更。 ミシンキャビネット生産減少、ギター部門売り上げ52%に。1970年代に入り海外のロックアーティストが次々と来日。またヤマハのポプコン、神田商会のA-Rockなどのイベントにより国内の若者のロックシーンが盛り上がったことにより

コピーギター(ストラトやレスポール)の需要が高まる。

再びエレキギターの需要が増え、富士弦楽器(神田商会)のグレコのレスポール(EGモデル)の製造を委託される。

(大和氏(1974年入社、組立、営業企画、後にアリアの企画も担当)によると、グレコが急に売れ始めたとき、最初だけは神田商会の指示でグレコのセットネックとかアーチのつくギターはマツモクでやっていたそうだ。富士弦楽器も製造ラインのキャパシティがいっぱいで、生産ラインが3本あるマツモクのほうが急増した需要にこたえる生産能力があったからだったとのこと)

さらに1970年代半ばはグレコのフェンダー系コピーの製造委託も盛んになる(デタッチャブル系のモデルにはジョイントプレートにMATSUMOKUと入る)1970年代は、海外ブランドのエレキギター生産も盛んになる。

(マツモクで生産したブランドについて)ConradUnicodeVenturaLyleShaftesburyWestburyEpiphoneGrecoElectraVantageVoxHondo2SkylarkCrestwoodAlvarez YairiELKAriaAria DiamondArai Diamond Ariapro2WestminsterAzusaFantomFristerPearlFranpton、(Fernandes1983年から) etc. 廃業するまでに30以上のブランドを製造。

輸出関係ではマツモクオリジナルのWESTONEの世界の販売代理店St. Louis musicWestburyFCNMayerENGROActive Musicとの取引が最後まで残った。

 1972年、フォークギターを中心にギター売り上げが70%になる。 第2次エレキブームが始まる。

1973年、Victorの電子オルガン(ビクトロン)の製造始まる。同年最高売上額26億円を達成。

 1974年、 Epiphoneブランドエレキギターの注文がピークに。自社ブランドのフォークギター(Westone)始まる。開発にはエルクの斉藤任弘氏からアドバイスを受け製造。販売者は神田商会で主に丸井を中心に販売された。 ギター売り上げ74%に。

 1975年には荒井貿易との関係がさらに強くなり、マツモクを代表するブランドとなるAriaPro2の製造が始まりコピーモデルで第2次エレキブームを追随。マツモク(荒井貿易)のアリアプロ2、富士弦楽器(神田商会)のグレコとの2大ブランドが日本国内のギター業界を牽引していった。 神田商会とはフォークギターのWestoneを日本国内向けに立ち上げる。神田商会とはさらにエレキギターのエントリーモデルのブランドWestminsterを立ち上げる。

Epiphone注文が激減。 マツモクWestone主催I Love Countryコンサート開催。

 1976年、エレキギターの輸出が好調に。ギター売り上げ88%に。この時はWESTONEの販売で海外の販売代理店と組んで世界戦略を実施してイングランドにおいては一時期マーケットシャアNO.1を獲得するという快挙。代理店のFCNミュージックの協力もあり偉業を達成、

 1977年には、現在も名器として名高いPE-1500が生まれる。この芸術的で革新的なデザインは林信秋氏が一人でデザイン、設計、製作までを行った、世界に通用するオリジナルデザインのギターだった。 しかし林氏は、これまで行ってきたコピーモデルを作ることへの憤りとオリジナルで勝負したいという思いから同年退社。独立する。(PEのデザイン使用権は有する)

当時の市場において他に類を見ないクラシカルさとモダンを融合、洗練されたデザインを纏っていたPE-1500は、製造コストも実際にはもっとかかっていたが、定価は当時のソリッドでは最高クラスの15万円(本体\135,000ケース\15,000)という設定で、ARIAの企画営業サイドは、拡販のためにスペックを下げたバリエーション・モデルのPE-1000PE-600を投入。話題づくりのために木曽の工房で漆塗り仕上げを施したPE-1000Uも発売。PE-1000Uは当時製造部長だった古家氏の出身地の奈良井の漆器工房にて塗装された。蒔絵を施したNAMMショウ・モデルなども話題づくりのために製作された。後年の金の蒔絵モデル以前に黒の蒔絵のものがあったそうだ。 

 

マツモク以外のギターメーカー各社も当時新進気鋭のアレンビックやB.C.Richをイメージしたオリジナルデザインのスルーネック・モデルがラインナップされたのが1977年からだったが、これは1977年にギブソン社から富士弦楽器が訴訟を受けたとされる年でもあり、各社早急にコピーモデルからの脱却が迫られていたからだと推測される。

PEは国内では当時若手人気のアーティスト、松原正樹や渡辺香津美へのギター提供とフォローをはじめ認知度がアップ。人気を得る。

因みに、PE1500を一番最初に渡したギタリストはBOWWOWの山本恭司氏だったとのことである(大和氏談)

(当時BOWWOWだった山本恭司氏にそのPE1500のことをお聞きしてみました)

 アリアのPE、はい確かに持っていました。レコーディングでは使ってはいませんが、それを使って、海外向けの何かのCM撮影をしたのを覚えています。 残念ながらそのギターは今手元にはありません。

ロンドンに住んでいた頃に、日本の事務所の倉庫からギター、アンプ、エフェクターを何台か盗まれてしまったことがあって、おそらくその時の一本ではないかと思います。 家具調の仕上げがとても丁寧で美しく、触れているだけで気持ちのいいサラッとした感触も覚えています。

 そういえば、僕が高1の頃に最初に買った新品のエレキギターはアリアのレスポール。その後に買ったグレコのストラトは、ネックかどこかにマツモクとしっかり書いてあった記憶があります。グレコのストラトは、1973年くらいに買ったはず。それを自分で改造して、世界初のHSHストラトにしたのは僕です()この写真はHSHですが、音はまだ改造前、もしかしたらリアだけをハムにした時くらいかもです。

1978年、円高(1ドル175円)により輸出向け売上ダウン。 

マツモクとアリアの企画によって再正デザインされた、同じく名器のSB-1000や、SHなどの個性的なモデルが誕生。この時期に渡辺香津美や松原正樹の意見を取り入れて、より販売しやすくプレイヤービリティ―の高いギターへと進化していく。

当時アメリカ、ヨーロッパにも販売されたPESBの販売価格はPEが$1500前後、SB1200だった。ギブソンのレスポールが$1000程度、

ベースで$1000を超えるのはアレンビックくらいだったという。

 1979年、不景気と円高の憂き目に遭いさらにギターの売上が大幅にダウンする。すでにギター生産の割合が90%を超えていたために苦戦。 収益改善多角化のため仏壇の製造始める。 

ギターではさらなるAriaPro2オリジナルモデルが登場し注目を集める(19791981にかけてRSTSCSNKSTなど)

TSは手に入りやすい価格帯で高級機譲りの凝った仕様で大ヒットした。その他各モデルの上位機種にはディマジオが搭載され、ディマジオの販売にも一役買った。CSー350は仕事が無かった特の苦肉の策で出した低価格帯のオリジナルモデルで景気を反映してか飛ぶように売れた。後にアーチドトップのCS400に進化。

 1980年代に入り東海楽器が口火を切ったリアルコピー競争が熾烈となる。アリアプロ2もコピー路線のモデルが一時的に復活。ディストリビューターの荒井貿易の利を生かし、低価格帯から惜しげもなくディマジオ・ピックアップが搭載されたDimarzio Powerdシリーズが大ヒット。 オリジナルモデルはPEPE-Rに、RSRS-Xに、SBSB-Rにモデルチェンジとなり、Uシリーズなど追加される。

一方、エレキギターのオリジナルブランド ウエストンを開発し世界に販売を延ばしていく。国内にも販売。販路開拓などが実り業績回復。

 1981年、OEM路線からの脱却を図る。 フランクフルト・メッセでホテルの一室で自社ブランドWestoneをバイヤーにお披露目。

同年のエレキギター生産数は月産6000本。

 1980年代初頭、神田商会の小嶋社長がマツモクにフェンダージャパンの製造申し入れに来たが、マツモクは荒井貿易とギブソンの縁もあるためそれを受ける事はなかった。 その後も富士弦楽器と協力して、新しいものを作る交流会が開かれたが、富士弦楽器はフェンダー、マツモクはギブソンを担いでいたこともあり実現することは無かったそうである。

 アリア、マツモクではアーティストとの連携も盛んに行われ、AriaPro2のエンドーサーはジャック・ブルース、ウィル・リー、ニール・ショーン、マーカス・ミラー、宇崎竜堂、ジェリー・コット、マイケル・シェンカー、イングヴェイ・マルムスティーン、アースシェイカーなどがカタログなどに登場。海外ではWestoneのエンドーサーとして、リック・デリンジャー、ジョン・ボンジョビ、トレバー・レビン、ブルー・プレイリー・リーグなどがいた。

 1982年 オリジナルブランドのWestoneFCN社、BMI社、MayerSt. Louis musicMUSIC ENGROActive Musicなど ヨーロッパへの拡販進む。代理店は11カ国となる。

 1983年 フランクフルト・メッセにWestoneのブースを初出展。

12月より主軸のアリアプロ2の他にフェルナンデスの生産を一手に引き受け(その前はカワイで生産)後のマツモク終盤までにはフェルナンデスを国内シェアトップに押し上げたが、アリアプロ2が衰退してしまう。 荒井貿易とは険悪な関係になるも製造は続けられた。

同時期HR/HMの人気もありシャーベル/ジャクソンが売れており、ウェストーンに奇抜な変形モデルが次々投入される。これらは大和氏が海外バイヤーのマーケットレポートから、NAMMFrankfurtショー等のトレンドをみて工場へ持ち帰り、デザイン設計をした。USA, ST.LOUIS MUISC Mr, Tom Presly 部長と一緒に開発。(Westoneの変形は当時『WAY OUT DESIGN GUITAR』と呼ばれていた)

 1983年、1970年代末からの不景気と円高により、多角化路線を模索した仏壇の製造が取引先の倒産で約2億円の損害を受けてしまう。

 1984年 再建を図るため工場敷地約7260㎡を松本市に43700万円で売却。役員5人更迭、自主退職で50人の人員削減。 

 198510月以降大幅な体質改善を実施。最新設備を導入(静電塗装機)年間32000本以上を記録。

 1986 2月さらに設備投資。自動研磨機、自動指板研磨機、6NCルーターを導入し効率化を図る。

ヨーロッパは好調だったものの円高で北米向け輸出激減。国内向け生産を増やし輸出と国内で5050の比率となる。AriaPro2WestoneFernandesで月7500本を製造。しかし円高(1ドル170円割れ)の影響は大きく輸出向けの収益が前年比50%まで悪化しついに7月に赤字に転落。

すでにアメリカ、カナダ輸出向けの比率が6割を超えていたため、このまま続けては倒産すると判断した経営陣は解散を決定。取引先には1年以上前からアナウンスを開始したため駆け込み注文が入り工場はフル生産の状態に。

そして約10億円の負債と従業員への退職金を捻出するために、工場敷地を松本市に買い取ってもらう交渉の末、19872月マツモクは解散となった。

現在、工場跡地は南部公園として市民の憩いの場となっている。